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「田所の乙松どんのふとさふとさ。」
乙松が生まれたとき、村の人々はその大きさにびっくりして、こう言ったといわれています。そして、その成長の早いこと。十二、三歳の少年になった頃には、早くも身のたけは六尺三寸(約1・9メートル)にも伸びていました。
「この子は豊年児(並外れて大きい子供の事)ばい。どこまでふとう(おおきく)なるかわからんなあ。」
乙松の名は、矢部郷(現在の上益城郡矢部町)いっぱいに広がりました。
この乙松こそ、身長七尺五寸(約2・3メートル)あって、日本一の大男とさわがれた大空左衛門の幼いときの名前でした。
乙松は今から二百年ほど前、田所(矢部町田所)の百姓の子として生まれました。そして、十六歳のとき、名を、武左衛門と改め、大人の仲間入りをしました。武左衛門ではいかにもいかめしいので、土地の人はいかめしい武左衛門の名で呼ばず、「武じゃどん、武じゃどん」と言って親しんでいました。
ある日のことです。武じゃどんが野の道を歩いていると、向こうで大きな牛が草を食べているのが見えました。近寄ってみると、大きな体が道いっぱいになっていて通
ることができません。武じゃどんはちょっと考えていましたが、やがて、長い足をあげると、どっこいしょと、またいでしまいました。見ていた村の人はびっくりして、
「おうい、武じゃどんが牛をまたいだぞー。」
と、大きな声で叫びました。武じゃどんが牛をまたいだという話はその日のうちに村中に広まりました。このことがあってから、みんなは武左衛門を牛股武左衛門とか、牛股武じゃどんとか呼ぶようになりました。
矢部町には、八朔祭りというたいへんにぎやかなお祭りがあります。町では、けものや怪獣や、そのほか工夫を凝らした大きな作り物を作っては、その出来栄を競っていました。この日だけはどこの家も仕事を休んではお祭りの見物に出かけます。せまい町の通
りはどこも押すな押すなの大にぎわいです。
武じゃどんは、このお祭りを楽しみにいそいそと見物に出かけました。ところが、どうしたことか、しばらくするとさっさと帰ってしまったのです。
「あら、武じゃどんな、もう帰ったかい。祭りはさぞにぎやかだったろうな。」
と聞くと、
「なんの面白かことのあろうかい。どこの家も空家ばかりで、ところどころ昼寝どんしとったばい。」
と言うのです。そんなはずはないとよく聞いてみると、なるほどその通りでした。町中は動きもとれないほどのにぎわいでしたが、大男の武じゃどんにはそんなところは目につかず、見えるのは二階から上ばかりだったのです。見ると、みんな祭りに出かけたのか二階には人影はなく、いたとしても昼寝をしている人ぐらいのものでした。
その頃、近くの山田村に角盤というたいへんな力持ちがいました。この角盤は身の丈は四尺三寸(約1・3メートル)ばかりの小男でしたが、体中が力のかたまりのような男でした。
ある日、角盤は父親から、田んぼに青草を入れておくように言われました。田んぼの肥やしにするのです。しばらくすると、「一わ入れておきました。」という角盤の返事がありました。行ってみると、田んぼの真ん中に、青竹で縛った山のような草の束が置いてありました。父親は、ナタで青竹を切りました。すると、竹がはじけて、押し固めてあった青草が跳ね返り、谷間いっぱいに広がりました。お父さんはその草の下敷きになって、やっとはい出すことができました。
武じゃどんも角盤も力は人並みはずれています。相撲をとっても、一度も負けた事はありません。村の人々は、この二人が力比べをしたら、どっちが勝つだろうかと噂し合っていました。その噂が高くなるにつれ、二人とも一度は力比べをしてみようと思うようになりました。
そんなある日、角盤は武じゃどんの家に力比べにやって来ました。しかし、あいにく武じゃどんは留守でした。仕方がないので、角盤は、
「それでは、わたしが来たというしるしだけを残しておこう。」
とつぶやきました。
翌日になってみると、たいへんなことになっていました。お堂が後ろ向きになっているのです。角盤がお堂の下にもぐって、背中でエイッと持ち上げて向きを変えたのにちがいありません。びっくりした村の人達は、村じゅうの人を集めて、半日もかかって元のように直しました。
これを見た武じゃどんは、こんどは角盤の村に出かけていきました。こんどは、山田村の人達がびっくりしました。村人が観音様にお参りして手を洗おうとすると、手洗鉢がありません。はてなと見上げると、お堂の横のエノキの中ほどにちゃんと乗っているではありませんか。重さ四十貫(約150キログラム)もある大石です。村の人達は、それを下ろすのが大変だったということです。
その年の暮れ、十二月も押しつまったある日のことです。武左衛門は、会所(お役所)から、呼び出しを受けました。恐る恐る出てみると、角盤も呼び出されています。正面
には、総庄屋の布田太郎右衛門が難しい顔をして座っています。
「その方たちが神様のお宮や手洗鉢を動かして村々に迷惑をかけたことは、まことに不とどきである。」
二人は、きびしいお叱りを受けました。そして、
「きょう、ここで力比べをやってみよ。」
と命ぜられました。
やがて、会所の木戸が開かれると、町や村の人達がどっと押し寄せてきました。みんなは武左衛門方と角盤方とに分かれてたいへんな騒ぎです。
力比べは武左衛門から始められました。武左衛門はお米二俵を背負い、両手に一俵ずつ、全部で四俵(約240キログラム)を持って、のっし、のっしと歩いてみせました。こんどは角盤です。角盤はそばにあった大きな樫の棒を持ってくると、その両端に二俵ずつ、これも四俵を下げて広い庭を一回りしました。力比べは勝負なしに終わりましたが、このことがあってから、二人は大の仲良しになりました。
武じゃどんのことは、やがて殿様の耳にも入り、細川藩のおかかえ力士となりました。殿様に仕えると、こんどは殿様のお供をして江戸に行ったりするようになります。
この旅では、さすがの武じゃどんにもつらいことがありました。それはわらじを作ることでした。靴のない昔のことです。足に履くものは、わらじしかありません。ところが武じゃどんの足の裏は一尺三寸(約40センチメートル)もあるのです。そんな大きなわらじを売っている店はどこにもありません。仕方がないので、武じゃどんは宿に着くとすぐワラを買い集めては、自分の足に合うわらじを何足も作らなければならなかったのです。
武じゃどんは後に江戸に出て力士となり、大空武左衛門と名乗りましたが、惜しいことに天保三年(1832年)、三十七歳の若さでなくなりました。
武左衛門の墓は、今でも矢部町に残っているそうです。
おしまい。
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