猫寺
球磨郡・水上村の千光山生善院というお寺にまつわる昔話。
無実の罪から息子を殺された母の執念ともいえる呪いのお話です。
(協力・水上村役場 企画観光課)

 


 

 天正十年(一五八二年)のことです。
 人吉・球磨地方は、わずか十歳の相良忠房が殿様として治めていました。ある時、
「忠房のおじ、相良太膳助頼貞が謀反をはかり、湯山の地頭、湯山佐渡守宗昌と、その弟で水上村岩野の普門寺の僧盛誉を味方に引き人れてせめてくる。」
と、告げ口をしにきた者がいました。
 それを聞いた忠房は、あわてて家来たちと相談して、宗昌・盛誉兄弟を殺そうと、多くの家来たちを普門寺へ差し向けました。
 家来たちが出発したあとでいろいろ調べたところ、根も葉もない作りごとであることがわかりました。そこですぐに、忠房は普門寺に向かった家来たちを止めようと、犬童九介にその後を追わせましたが、九介は免田の宿場で好物の焼酎を飲みすぎて、ぐっすり眠り込んでしまいました。
 普門寺では、忠房の家来たちがせめてくるという知らせを聞いて、盛誉たちが集まって相談しました。盛誉は、兄の宗昌に、疑いが晴れるまでしばらく身を隠しているほうがよいとすすめました。宗昌は一緒に逃げるように盛誉に言いましたが、盛誉は、
「わたしは仏にお仕えする身です。そのわたしまで逃げ隠れしたら、殿の疑いはいちだんと深まるでしょう。わたしは・この寺に残ることにします。兄上だけは、どうかしばらくどこかに隠れていてください。」
と、再び宗昌に寺を出ていくようにすすめ、自分は寺に留まることにしました。宗昌は仕方なく一人で寺を抜け出しました。
 夜明け前、球磨川を渡ってせめてきた武士たちは、じりじりと寺を囲みました。盛誉は、昨夜力なく肩をおとして逃げていく兄の姿を思い浮かべながら、静かに仏様の前に座っていました。そこへ、二人の弟子が青くなってかけ込んできました。
「おししよう様、おししょう様、早くお逃げください。もう門の前までやってきました。早く逃げてください。早く、早くー。」
「いやいや、わたしはこのままでよい。おまえたちこそ、早く逃げなさい。」
 しかし、そのとき、お堂の障子が黒木千右衛門という武士に蹴破られました。千右衛門は、盛誉を見つけると、ものも言わずに、一刀のもとに切り倒しました。盛誉は、そのままばったりと倒れました。二人の弟子は、かなわないまでも、師のかたきと千右衛門に飛びかかりましたが、苦もなく切り捨てられてしまいました。
 いっぽう犬童九介は、東の空が白み始めるころ、けたたましいひづめの音に目をさましました。
「しまった。遅れたか。」
 九介は、とるものもとりあえず普門寺にかけつけましたが、すでに、盛誉や弟子たちは殺された後でした。九介は使いの途中で、焼酎を飲んで眠り込み、殿様の命令を果 たせなかったことを申しわけなく思い、その場で切腹してしまいました。

 それから何日かたったある日、市房神社にこもっておいのりをしている年をとった女の人がいました。盛誉の母親です。母親は、盛誉を殺され、宗昌も行くえがわからなくなったことをなげき悲しんでいましたが、悲しみが深まるにつれて殿様とその家来たちをうらむようになりました。今その恨みを晴らすために、二十一日間断食して、市房神社にお祈りしていたのです。日は窪み、髪は乱れて、見るからに、一心に思いつめている様子でした。その枯れ木のような両腕には、一匹の黒ネコが抱かれていました。
 そして二十一日目の夜、冷たい山の風が吹き抜ける社殿の片隅に座り込んでいた母親の膝の上では、その黒ネコがひもじさのために力なく鳴いていました。それを見ていた母親は、何を思ったか急に自分の指をかみ切り、流れ出る血をネコになめさせました。そして、低い声で、まるで人間に語りかけるようにネコに話しかけました。
「玉垂や。わたしの言うことを聞いておくれ。わたしの子は、何の罪もないのに、殿様に殺されたり、行くえがわからなくなったりしてしもうた。いかに殿様でも、ひどすぎる。あまりにも情けない。敵討ちをしようにも、年老いた女の力では、何もできない。わたしの気持ちをわかっておくれ。」
 母親は、冷たい夜風の中で、呪いの言葉をくり返しくり返しつぶやいていました。
 その数日後、ネコをしっかりと抱いた母親の死体が市房山のふもとの川に浮かんでいました。
 春も終わるころ、盛誉を切った黒木千右衛門が病気になりました。なんでも、ネコにおびえる様子がひどく、まもなく気が狂って死んだという噂が流れました。
 三年後には、殿様が十三才の若さでなくなりました。そのほか、ネコのたたりと言われる不思議な出来事が、次から次と起こりました。
 お城では、いろいろお祈りをしてみたが、不思議な出来事はおさまりませんでした。そこで、新しい殿様は、呪いをはらうために慈悲権現社を建て、また、普門寺のあとに生善院を建てて盛誉と母親の魂をなぐさめました。更に、その命日には、殿様がお参りをし、人々にも必ずお参りをするように命じたので、ようやくネコの祟りは無くなったということです。
 それ以来人々は、普円寺のあとに建った寺を生善院猫寺と呼ぶようになりました。
 生善院の東側には、盛誉と母親とネコのお墓のしるしとして、三本のヒノキが植えられたということです。この三本の木は、いつの頃か、その根もとが一本の木のようにくっついてしまい、熊本県で、最も大きいヒノキとして、天然記念物に指定されていましたが、昭和三十九年九月三十日、人吉・球磨地方をおそった台風で根もとから折れてしまったということです。

 おしまい。

 


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