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今からおよそ六百年ほど前のことです。そのころ、日奈久は、八代海の浜べの小さな漁村でした。
日奈久の浜から、あまり遠くないところに小島があります。この島のあたりの海は、よく魚がとれるので、浜の人たちのよい漁場になっていました。
ある日、漁が終わったあと、いつものように漁師たちがこの島に船をとめて休んでいるしと、誰もいないはずのこの島に人のかげが見えました。
「おうい、だれかおる(いる)ぞう。」
近寄ってみると、武士らしい若い男が立っています。痩せて、目ばかりきらきらさせています。みすぼらしい身なりで足にけがをしているようです。
「ああたは、どこから来なはったつか(来られたのですか)。」
「食べもんは、どぎゃんしとんなはるとな(どうしてるのですか)。」
と、村人は口々に男にたずねました。
男はしばらくうたぐり深そうに村人たちを見つめていましたが、やがて、
「今は、わけがあって言えぬが、貝や海草をとって飢えをしのいでおる。」
と、力なく答えました。
この若い武士の名は、浜田右近といって、甲斐重村の家来でした。右近は主人の甲斐氏につき従って菊池氏と戦ったが敗れ、足に深手を負ってあちこちと逃げ歩いているうちに、いつのまにかこの小島にたどりついたのでした。
だんだん話をしているうちに、右近が学問もあり、心もやさしい人柄だということが村人たちにわかってきました。村人たちは、何とかして右近を助けてあげたいと思いました。このままでは、食べ物にもきずの手当てにも事欠き、ますます体が弱っていってしまうにちがいありません。
漁師たちは相談して、右近を日奈久に連れ帰ることにしました。
右近が村に移り住んで何日かたちました。毎日毎日、きずの手当てをしながら、村の子供たちに読み書きを教えていました。右近はどの子にも同じように、丁寧にやさしく教えてあげました。
このような右近でしたから、いつしか親からも子どもからもしたわれるようになりました。その後、右近は、漁師治兵衛のむすめと夫婦になり、まもなく、六郎左衛門という男の子をもうけました。
六郎左衛門は、大きくなるにつれて、りこうな親思いの子どもとして育ち、戦のきずが元で体が不自由になった父の手足となっては働きながら学問もよくしました。
応永十六年(1409年)、六郎左衛門が十八歳になった春のことです。
六郎左衛門はこれまでに、父の体をなおそうと、あちこちの医者をまわって、きず薬やこう薬を求めましたが、その甲斐もなく父の体はどんどん弱っていくばかりでした。
もう、これからは神さまにたよるほかはないと思い、はるか遠い安芸(広島)の厳島神社の市杵島姫命にお祈りすることにしました。
「わたしの命はちぢめてもかまいませんから、どうか父の体を元どおりにお治しください。」
と、十七日の間まごころを込め、水ごりしながら、お祈りを続けました。真夜中、人に見られないように十七日間もお祈りを続けることは、たいへんつらいことでした。
満願の十七日目の夜のことです。夢まくらに市杵島姫命が現れ、
「おまえは、父の刀きずをたいへん心配し、わたしを信じる心も深い。自分の命をちぢめてもきずを治したいという父を思う心をうれしく思う。おまえのその心に免じて不思議なほどよくきく薬をさずけてあげよう。よいか、この海の浜辺に平たい石がある。そこから山の方に向かって百歩歩いたところに、めずらしい石が一つある。その下を掘ると、湯がわいてくる。おまえの父をこの湯に入れると、刀きずは七日ですっかりよくなるであろう。」
と告げられました。うしの日のうしの刻(午前二時)でした。
六郎左衛門は、さっそく、夜が明けるのを待って、お告げのとおりに歩いてみますと平たい石から数えてちょうど百歩めのところにめずらしい石がありました。石をどかして、その下を掘り下げてみると、熱い湯が白い湯けむりを上げて、こんこんとわき出てくるではありませんか。
それからというもの、毎日父を背負ってくる六郎左衛門の姿が見られました。そして通
い始めて七日目、夢のお告げのとおり、父の刀きずは、うそのように治ってしまったということです。
これが、日奈久温泉のおこりだと今に伝えられます。
おしまい。
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